アリとキリギリス
こんにちはらぶです。
退職の日が迫っておりまして、上司に軽く相談してみたところ、まんま正論が返ってまいりました。即ち
・場当たり的に動くな
・消去法で動くな
・一生その職場もしくはその職種で行きたいと思える所か、そうでないなら10年15年先の事まで考えて役立つスキルを得られるか考えろ
・短期間での転職はマイナスでしかない
・やりたい事があるにせよ、そのスキルで目指すところへ向かえるか
・将来性のない職種に飛び込むな
などなど。正論ですよね。ぐぅの音も出ないですよ。
でもですね、らぶさんいつも正論を語られるとぐぅの音も出ないのには大きな理由があるのです。面と向かっては絶対に言えない理由が。
申し訳ないんだけど、らぶさん
生きている意味が解らない人
なのです。
別に自殺願望があるわけではない。
日々過ごす中で、必ずしも虚無ばかりがあるわけでもない。
大切に思う人もいる。世界は美しいもので溢れている。
自然物を眺めているだけで感動する。人間も含めて、宇宙は隅々まで美しい。
だけど、けれども、やはりらぶさんは、自分自身が生きている事と死んでいる事に、何の違いも見いだせないのです。
だからなのか、生き延びた先にあるものが想像できないのです。
40歳で死ぬのも、80歳で死ぬのも、大成して死ぬのも、後世に名を残して死ぬのも、誰にも気づかれずに死ぬのも、大した違いはないのではないかなと思っているのです。
恐ろしい愚問
「最終的に自分がどうなりたいのか」なんて聞かれて、喉元まで出かかったのは
「一刻も早く灰になって散りたい」だった。
けれども生きる事を望む人たちにとって死を受け入れる者の言葉は異端であり受け入れがたいものでしかないので、この話をしたところで意見は対立したまま終わるだろう事は経験上よくわかっている。だから私はこういう話になった時は、一方的に折れるしかないのだ。どうせ死ぬのに、という言葉は、「死ぬまで生き抜く」と決めた人たちにとって許せない逃避行動に見えるのかもしれない。
勿論私も今は自らの手で命を終わらせるつもりは毛頭ない。
けれども、命を長らえさせるための努力をする気もさらさらないのだ。
80歳100歳まで生きるための資産形成をする為にはこの年齢までにはこれくらい貯金があって、それくらい貯める為にはこれだけ稼がなければならない。つまりこういう職業に就くべきなのだ。という考え方は、はっきり言って私向きではない。
私はやりたい仕事がしたい。私には命などどうでもいい事だからだ。
でも、アドバイスをくれる人たちにそんな事、言えるわけがない。
「10年後?駄目だったら死んでるから良いんですよそんな先の事気にしなくても。」なんて言おうものなら、相手は最大級の侮蔑の眼差しを投げかけて、足早に私の元を去るだろう。
相手を傷つけたいわけじゃない。
けれども、誰かの顔色を伺うだけの人生を生きるつもりも毛頭ないのだ。
あなたの言っている事はとても正しい。
生きて行くのならあなたの様な考え方をするべきだし、しなければならない。
けれども、私は生き続ける事を望まない。それは私の望む自由ではないのだ。
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心配してくれたり気にかけてくださったりするのはとても嬉しい事ですしありがたい事には違いないのですけど。
「命は短いのだから真面目に生きろ」と「命は短いのだからやりたいように生きろ」というアリとキリギリスの様な意見の持ち主とでは、どこまで行っても平行線で終わるのでしょうね。
みなさまが誰に迷惑をかけることなく、心の赴くままに生きて行かれる事を心よりお祈り申し上げます(*´∇`)ノシ マタネ~♪