適切なアドバイスとは、受け入れられる状態の時に初めて価値が出る。
こんにちは。らぶです。
今日はアドバイスの話。
相手が何か困っているようなので懇切丁寧にアドバイスをしてあげたのに、どうも感触がよくない時ってありませんか?
私は基本的に求められた時以外には助言しません。それにはきちんとした理由があるからです。なぜならアドバイスというものは、基本的に欲しい人にしか有効ではないからです。
相手がアドバイスを要求していない時に勝手に行うアドバイスは、どんなに良かれと思ってやっていても実際は提供する側からの「命令(アドバイス)を聞け」という要求であって、教えを乞う側からの要求ではない事を理解する必要があります。
アドバイスの本質は相手の成長を促す為に行われるものであるため、どうしても相手の足りない所を指摘したり、今までの行動を疑問視したり否定したりしてしまう場合があります。
教える側教わる側のそれぞれがそれぞれの考え方を相互に理解した上で立場を設定し、情報を持っている人に教えを乞うというのがアドバイスの正しい行い方であり受け取り方ですし、もっと言えば、それ以外の状態で行うものはアドバイスではありません。
それは非難、否定、強要、命令、叱責、強制、矯正…であり、自分の考えを持っている人であればあるほど、望んでもいないアドバイスは受け入れ難くなります。
聖書にはこう記されています。
「誰が言ったかではなく、何を言われたかに注意を向けなさい」と。
それは選手とコーチの関係に似ています。コーチは、もしかしたらオリンピック金メダリストではないかもしれません。それでも、選手には金メダルを取れと指導します。
それには選手の方からの信頼がないと成り立ちません。
選手が、「何を言われているのか」に注意を向けているからです。
けれどもそれが全てでしょうか。
人を区別しないように、「誰が言ったかではなく何を言われたか」に注意を向ける様にしよう、本当にそれが全てでしょうか。
金持ちになりたいと思っている時に、ホームレスがそれっぽい名言を言っていたら、それを受け入れられるでしょうか。
いじめを無視し続ける先生に人権の大切さを謳われて、人を大切にしようと思うでしょうか。
営業成績をあげようと思っている時に、まったく仕事のとれない先輩や上司のいう事を真に受けるでしょうか。
何一つ成功していない人に、成功哲学を教え込まれて、納得できるでしょうか。
何を言われているかに注意を向けるのは大切です。
けれども、それは教わる側が教える側を信頼している場合に限る話であって、教える側が命令するものではないのです。
誰かを助けたいと思うのであれば、まず、自分から信頼される人間になる努力をしましょう。それもせずに好き勝手にアドバイスするのであれば、それは受け入れられなくて当然という自覚を持って話さなければなりません。そこで「こんなに良い事言ってあげてるのに何で言う事聞かないのかな」などと思う様では本当の意味で相手の為になどなっていませんし、たんに自分の「教えたい欲」を満足させるためだけのアドバイスであって自分中心の自己満足でしかありません。
教える側に立つ場合は特に、相手の立場に立って物を言いましょうね。