大変な贅沢
こんにちはらぶです。
今日はお仕事がお休みで、起きたのは9時過ぎでした。
食事をして洗濯物を干してそのままベランダでしばらく風に当たっていて、ぼんやりと考えるでもなく思いを巡らせておりました。
今日この日は、なんという贅沢な一日なのだろうと。
生かされているという実感
私は自分で働いた分のお給料を頂いて、それで食費や税金を払って生活しています。
けれどもそこには大義名分も自分に課せられた使命なんてものもなく、自分がいるからこの世界は成り立っているのだ、だから自分は生かされているのだなどという実感もあるわけがなく。それなのに、自分は生きている事が出来る。血が滲むほどの努力や四肢を失うほどの危険を冒しているわけでも、他人に涙を流して喜ばれるような事をしている訳でもないのに。
私は一人では、無人島で1週間も生き延びられないと思う。
水をきれいにする方法も知らないし、火の起こし方も食べられる食材の見分け方も、害虫から身を守る方法も、科学技術無しにけがや病気に対処する方法もまるで分らない。
私は確かに、ただで何かを得ている訳ではない。
水道や火や電気を使うにも労働で得たお金を支払っているし、可愛い洋服やカットされた食材を買うのにも対価を支払っている。
けれども、私の労働は、本当に支払っている対価と同等の価値があるのだろうか。
私の働きは、人ひとり(自分)の生命を維持するだけの価値を創り出せているのだろうか。
直感的な答えとしては、否。だと思っている。
否、そうではない。
そうではないのだ。
自分が同等の価値を支払っているのではない。
相手が値引きしてくれているのだ、と思った。
それは別に私個人に対しての話ではなく、世界全体で、という意味でだ。
確かに、世界の原則は等価交換だろう。
何かを得る為には同等の価値のものを相手に渡す必要がある。
それが時には現金と物品、労働と評価、信頼と愛情といったように形はさまざまだが、何も渡さずに何かを得る事は、宇宙の物理学的法則からいっても錬金術に等しくあり得ない事なのだ。
それなのに、私が生きて行くのに私の働きを提供するだけで、私が十分快適な生活が送れるくらいの作業や技術や能力を私にもたらしてくれる世界は、なんて優しいのだろうと思った。
それは、自分の技術に対して報酬を得た人たちが、それ以上は全体の発展のために分けましょうと言ってくれているようで、ベランダで心地よい風に吹かれながら、宇宙は果ての無い優しさで満ちていると感じた1日でした。
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この「他人に支えられている」という感覚は常にあるものなのですが、これがポジティブマインドの時は感謝しつつも「自分も世界にどうやって恩返ししようか」という考え方になりますが、ネガティブな時は「そんなに支えて下さっている世界に申し訳ないからこの物質(肉体)全部一旦お返ししよう。」という気持ちになってしまいます。
根源的な考え方は変わっていないのに、捉え方ひとつで全く違うものになってしまうから思考って不思議です(〃^∇^)o彡☆
みなさまが優しく穏やかな毎日を過ごされる事を心よりお祈り申し上げます(*´∇`)ノシ マタネ~♪