love2016の雑記

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気づいた事や感じた事、得た知識などをシェアしていきたいです

「愛されたい」はただの傲慢な欲望でしかない!だからどうするかってこと。

「愛されたい」は自分勝手で傲慢な欲望でしかない。

 

それもただの自分勝手ではない。

 

究極の自分勝手だ。

 

他人の心をこちらに向けさせるだけでなく、自分を愛するように仕向けたいという、極めて傲慢で、それはまるであたかも神に挑むかのようなものだ。

 

誰かを好きになるのも、

その人と話せて幸せだと感じるのも、

その人の幸せを願う事も、

全て自由だ。

 

それは自分の意思だから。

 

けれども

「愛されたい」は違う。

 

誤解を恐れず言うなら、それはマインドコントロールや洗脳に近い行為だ。

 

「愛されたい」という言葉は、愛という言葉を使っていながら

最も愛から遠い欲望である。

 

だから「愛されたい」と願う者は愛されないのだ。

 

「愛されたい」と願ってばかりいる者の側からは、人がどんどん離れて行く。

 

注意しないといけないのは

よく巷で囁かれる

「愛されたいなら愛しなさい」という言葉!!!

 

人間はそれほどバカでもありません。

「愛されたい」という大きすぎて隠しきれない欲望を抱えて「愛してあげる」と近寄って来る人がどれだけ不気味か、実際に経験された事のある方もいるのではないでしょうか。

 

愛されたがりは尽くしてくれる、優しくしてくれる、気遣ってくれる。

けど、大いに見返りを求めていて、その見返りが金品よりずっと重い、「同じ分だけ私を愛して!」というもの。

 

もともと愛するつもりのなかった人から強制的に愛情を渡されて、「これだけ愛したのだからあなたも私を愛して!」とせがむ。相手からしたら押し売りに近い。

誰が、望んでもいない押し売りを愛せるだろうか。

 

でも。

では、

 

どうしたらいい?

 

愛されたくて愛されたくて泣きたくなる程に愛を渇望してやまない人は

 

どうしたらいい?

 

愛することは手放す事

 

求めたところで愛情は得られない。

 

だから、自分で出来ることをやるだけなのだ。

 

 (実際はとても難しい事のはずだが)

見返りを求めずに相手を愛する事が出来るならそうしたらいい。

 

どうしても見返りを求めてしまう場合は、愛する事そのものを一旦やめるしかない。

 

他人に愛されたいと願う事も他人を愛する事もどちらもやめて、

残された自分に出来ることは恐らく

 

自己愛

博愛

 

くらいなものだ。

 

特定の他人に対する執着をひとまず脇に置いて自分を愛して

 

特定の誰かではなく自分も知らないような誰かに

自分が負担にならない程度に愛情を注ぐ。

 

あと、博愛は、まず自己愛が整っていないと難しいから注意。

 

自分で自分を愛する事を完結できていないと、博愛の場面でも承認欲求のような形で周囲から賛辞や愛情を求めてしまう様になるから。

 

結論

 

要するに、自己愛。

何はなくてもまず自己愛。

 

自分で自分を愛すること

自分を大切にすること

他人に執着しないこと

 

その上で、

他人を傷つけないこと

他人に親切にすること

他人とのかかわりを大切にすること

 

そうすると、自然と自分の中の「愛情枠」が満たされていって、

ある特定の誰かの愛情がないと生きていけない渇望状態からは脱することができるかもしれません。

 

そもそも「愛されたい」という欲望自体、

うまく自分を愛してあげられていない状態の時に発生している気がしますしね。

 

みなさまが心穏やかに日々を過ごされる事を心よりお祈り申し上げます(*´∇`)ノシ マタネ~♪